第八話:斐伊川に流るるクシナダ姫の涙
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『斐伊川に流るるクシナダ姫の涙』
「二本の木の棒が流れてくるわ。」
肥川のほとりで、雲国の皇女クシナダ姫は二本の木の棒が流れてくることに気が付いた。雲国に住む農民たちは箸を使う習慣はなく、クシナダ姫も海の向こうに住む異民族がこの箸というものを食事の際に使うのだと聞いたことがある。
「わしの妻になれ。」
そこに一人の男がやってきた。名をスサノオという。スサノオはクシナダ姫に対して結婚を迫ってくる。スサノオは一見して粗暴そうな男であるが、なぜか自信がありそうだ。クシナダ姫は条件を設けることにした。
「オロチ様を退治してください。さすればあなたの妻となりましょう。」
クシナダ姫はこれまで七人の姫たちの人生を送り、オロチに打ち勝ったように思えたが、敗れた。ヌナカワ姫は人生を賭して鉄を倭に取り入れた。アキ姫はその鉄を農業に使う術を開発した。セオリツ姫は民衆の力を使い堤を築いた。ククリ姫は河畔に森を植えた。ミヅハノメは灌漑によって水路を引いた。ハヤサヅ姫は杣人たちと繋がった。コノハナサクヤ姫は治水へと発展させた。だが、新たな災害が発生して多くの人々が亡くなっている。
オロチ≒災害を超克することは、クシナダ姫と雲国にとっての悲願である。雲国の農民たちと懸命に対策を施しているが、気候はそれ以上に変化しており、雨が降れば大雨が何日も降り続き、風が吹けば突風のような強風が煽りつけ、夏の日照りも冬の寒さも極端になってきている。
「我は多々良族の王である」
スサノオは聞いたことのない氏族を名乗った。聞けば多々良族は海を越えた新羅からやってきて肥川上流に住み着いたのだという。クシナダ姫を悩ませていたのは、上流から流れて堆積してくる砂であった。近年とくにその量が増加しており、農民たちが懸命に浚渫しても間に合わない。上流に住み着いたまつろわぬ民たちが関係しているのだろうか。クシナダ姫はスサノオに、上流に連れて行くように懇願したのだった。
クシナダ姫がスサノオとともに肥川を遡ると、どうやら上流にはたくさんのまつろわぬ民たちが住み着いているようだ。そこで見る光景にクシナダ姫は驚いた。まるで山全体を燃やすかのような勢いで伐採は進んでおり、肥川には泥水が濁流となって注いでいるのだ。
肥川では上流の山地で砂鉄を含んだ岩石がたくさん存在し、それらを切り崩して水流のなかから砂鉄を採集する鉄穴流しと呼ばれる手法が始まっている。そのため土砂を含んだ濁流が断続的に山から流れてきて川の分岐点にある池に注いでいる。池では砂鉄部分を沈降させ、上澄みの濁った土砂はさらに下流へと流されていく。
多々良族は採取した砂鉄を木炭によって高温で溶かし、叩いて不純物を取り除いていく。硬くきめ細やかな鋼鉄を造っていく工程は、やがてたたら製鉄と呼ばれるようになった。そして肥川はこのたたら製鉄で使う木炭を生産するために、多くの山で伐採が進んでいった。
クシナダ姫はヌナカワ姫の記憶から、この鉄という戦略物資を国内で生産する重要性に気付いている。一方で、鉄の生産のために人為的に洪水を発生させ、下流に土砂を流す行為は看過できない。この上流のまつろわぬ民たちと下流の農民たちが協力すれば、様々な困難を超克できるのではないか。
「この櫛のような形の農具をつくってください。」
クシナダ姫はアキ姫の記憶を頼りに、鉄を加工して櫛のような形にしたものを、鍬の先に付けて深く耕せるように改良した。これまでは平鍬と呼ばれる、木の板に鉄を貼ったものを使っていたが、これだけ鉄が豊富に採れるようになればもっとたくさんの農具が作れるようになる。
「あらかじめ切れ目を入れた堤を造りましょう。」
農民たちに新しい鍬が行き渡るようになり、クシナダ姫はさらにセオリツ姫の記憶によって新たな堤を造ることに着手した。完璧に連続した堤を造るのではなく、敢えて氾濫しやすい不連続の堤を造り、その先に河畔林を植えていけば洪水が起こっても制御しやすいのではないか。ククリ姫の記憶とともに応用した形で新しい堤を考案したのだった。
「天候が急変する兆候を見逃さないようにしましょう。」
クシナダ姫はミヅハノメの記憶から、気象予測を進めることにした。具体的には積乱雲や乱層雲など、その後に大雨を降らせる雲の兆候を観察した際には洪水に対する警戒を強めて、子どもや老人たちは事前に水塚に避難する等の対策を取ることとした。
「上流と下流の民が手を取り合って木を植えるのです。」
クシナダ姫はハヤサヅ姫がやろうとした、上流と下流の民を交流させてともに木を植える計画を進めようと考えた。必要なのは、コノハナサクヤ姫が造った酒である。雲国で穫れた米から酒を醸造し、上流のまつろわぬ民たちに振る舞っていく。やがて、まつろわぬ民たちも伐採した山地に木を植えることに賛同し、下流の農民たちは農閑期の冬に山に登って植林するようになった。
植林するようになると、さらに良質な木材が手に入ることが分かった。木が育つには数十年の月日がかかるが、子や孫の世代のことを考えて今植えるのだ。そうすれば土砂は流出しなくなり、下流の農民たちは建物を造る際の建材として木材を使うこともできるようになる。
「この妃には敵わない。わしも年貢の納め時だな。」
肥川流域全体をそれまでの七回の人生で培った知見で見事に納めていくクシナダ姫の姿を、スサノオは眩しそうに見ていた。粗暴さが目立ち、半ば勘当同然で新羅を追い出されてきたスサノオにとって、クシナダ姫の能力を利用してまつろわぬ民たちとともにこの地に定住するのは、悪くない選択だ。スサノオは雲国の王となり、クシナダ姫とともに末永く幸せに暮らしたという。
肥川は斐伊川と呼ばれるようになった。