第一話:糸魚川の翡翠と鉄の女王
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『斐伊川に流るるクシナダ姫の涙』
「もう雪倉岳の雪形が見えると申すか。」
従者からの言葉にヌナカワ姫は玉座から思わず立ち上がってしまう。その胸には巨大な翡翠の首飾りをかけている。再び玉座に腰を下ろすと、翡翠の首飾りは大きく弾んだ。
年々、雪形=山頂付近に雪解け時に現れる紋様 の出現が早まっているように感じる。ヌナカワ姫が子どもの頃は、年が明けてから満月が五度来てようやく雪形が見られたものだった。ヌナカワ姫の治める越国では、この山々の雪形が見える頃に田圃を起こし始めるのが通例だ。つい先日に年が明けたと思ったら、もう農繁期に突入しようとしている。この様子だとまた雪解け水が増えそうで、下流域ではズブズブの沼地が広がってしまうかもしれない。
翡翠の女王―ヌナカワ姫の別名である。切れ長の瞳に長い黒髪、その頭には翡翠をちりばめた王冠が乗っている。倭の北岸を広く越国として支配するヌナカワ姫は、本拠地を長者ヶ原に置いている。ここには深い谷が走っており、その断層から翡翠を掘り出し、勾玉に加工して各国との交易に使っていた。長者ヶ原では加工した翡翠の勾玉を、下ってすぐの海から各地へと輸出しており、その範囲は加羅を経て大陸にまで及んでいる。
「わらわはヌナカワ、越国へようこそやってきた。」
今日ははるばる加羅から使節団がやってきた。目当てはもちろん、翡翠である。加羅との間に広がる海は、冬は荒れやすいがこの雪形が見える季節になると波が安定してくる。今年もそろそろ来る頃ではないかと考えていたところだ。加羅の使節団と、ひと通りの挨拶を交わしながら本題へと入る。ヌナカワ姫の前に黒い板状の金属が並べられる。鉄鋌という板状の鉄の塊である。加羅では鉄鉱石が採取され鉄の加工がはじまっていた。
「そちらの鉄と、こちらの翡翠を交換しよう。」
鉄を目の前にして、ヌナカワ姫の顔がほころぶ。この鉄を加工して、新しい武器をつくることができる。越国がここまで版図を拡げることができたのは、この鉄製の武器をいち早く手に入れられたからである。近隣の国々は未だに青銅製の武器を使っており、鉄の剣と鎧を装備させることで兵士たちの戦闘能力は上がる。実際にヌナカワ姫の周囲には、黒く光る鎧を身に付けた兵士たちが並んでいた。
「して、今回はいかほどの鉄を持ってきたのか。」
すぐに検分役の兵士が鉄鋌を見ながら持ち上げてその重さを計っていく。おおよそ、指先一つ分の翡翠とこの鉄鋌一つを交換することで合意しているが、遠路はるばる海をこのような重いものを積んで運んでくる大変さを踏まえて、少し多めの翡翠を渡すように心掛けている。この配慮が信頼関係を育み、越国でほぼ独占的に加羅からの鉄を輸入できている理由である。
加羅よりもたらされた鉄鋌は、さっそく長者ヶ原にある鍛冶場で溶かされ、加工される。これまでは板で扇ぎながら木炭を燃焼させていたが、ふいごと呼ばれる袋から空気を押し出す器具を開発したことで木炭の燃焼温度が上がり、鉄の加工がしやすくなった。剣や鎧の形に削った石の間に溶けた鉄を流し込み、冷やしながら固めていく。この大量生産の方法を開発したのも越国であり、数日のうちに兵士数十人分の剣と鎧が出来上がったのだった。残った鉄も、矢じりにして余さず使う。むしろこの鉄の矢じりこそが、他国の兵士にとっては青銅の鎧を容易く破って刺さり、越国に脅威を感じる点だ。
ヌナカワ姫は自ら先頭に立って軍を率いることを好み、近隣の国から怖れられている。大きな翡翠の埋め込まれた鎧を身に纏うヌナカワ姫は、いつしか勝利の女神として崇拝されるようになった。それとともに近隣の村々は戦わずして降伏するといった形で畏れられており、翡翠の女王の支配に下っていったのだった。
そしてヌナカワ姫も、この自身への畏怖を領国支配に結び付けている面がある。とくに好戦的な性格というわけではなく、むしろ静かに思索に耽るのがもっとも好きな時間の使い方だ。冷静に自らを客観視し、求められる役割と振る舞いを分析した結果、非情で神秘的な印象を持たれるようになった。
その夏は例年よりも暑く感じた。ヌナカワ姫と兵士たちは、北部まで遠征に出撃した。北部の民は狩猟採集を中心に暮らしており、普段は越国と交流することはない。しかし天候不順による食料不足によって越国の農地に出没することが増え、農民たちから救援要請がきていた。数回の散発的な戦闘の後、十人程度の捕虜を生け捕りにしている。その捕虜から気になる言葉を聞いた。曰く、オロチなるものが出て村が全滅し、仕方なく越国まで下りてきたという。
「オロチとは何だ、何が起こったのか。」
ヌナカワ姫は問い質すが、捕虜たちはあまり言葉も通じないため要領を得ない。この越国と周辺には自分たちが知らない、巨大な怪物がいるのだろうか。捕虜たちの話を聞いていても分からないことだらけだ。ヌナカワ姫は長者ヶ原に戻って古老に聞いてみることにして、退却したのだった。
「ようやく、長者ヶ原に帰れるな。」
関川を越えると蜂ヶ峰から山中に入り、尾根伝いに西に進む。この天然の要害こそが本拠地である長者ヶ原を守ってきた。すでに出発してから二度の満月を数えており、季節は夏から秋へと変わっているが、まだ汗ばむ陽気の日が多い。このところは雨が多く、今日もしとしとと降り続いている。悪天候のなか歩みを進めていき、根知川沿いに出た。ここを川沿いに下れば、長者ヶ原まではあと一息である。
川沿いを歩く。秋は木々の葉が色彩を変え、非常に美しい渓谷となりヌナカワ姫も好きな季節だ。だがこのところは木々が色づく時期はどんどん後ろ倒しとなり、秋の長雨のような状況が続いている。今日中に歩き通して長者ケ原まで達するか、それともどこかで休んで夜を明かすかを思案しながら、渓谷を下っていく。その時、ドッドッと大きな音が上流から聞こえてきた。
「しまった、これは大水だ!」
急いで逃げようとするも、狭い渓谷は断崖絶壁に囲まれており逃げ場がない。あっという間に目前まで水の壁が迫ってくる。ヌナカワ姫と兵士たちは、洪水に呑まれてしまったのだった。
その後、この川はヌナカワ姫にちなんで姫川と呼ばれるようになった。
第二話:信濃川を望む墳丘の墓標
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