第三話:神通川の流れを包む
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『斐伊川に流るるクシナダ姫の涙』
「次は鵜坂神社でお神楽を舞う準備をしなければなりません。」
セオリツ姫は、巫女として多久比禮志神社と鵜坂神社を忙しそうに行き来している。売比川を挟んで東西に位置する神社において、それぞれ神職を担っている。これまでも数多くの故人たちの口寄せをしてきたが、中でも鮮明に印象に残っているのは越国のヌナカワ姫と科野国のアキ姫だ。大陸から戦略物質としての鉄を手に入れ、それを農具として生かして土地改良を行なうという記憶は、セオリツ姫の好奇心を刺激せずにはいられない。
幸いなことに、セオリツ姫はこの売比川流域においては農民をはじめ様々な人々と交流がある。越国の傘下で鉄は手に入りやすい環境にあるため、早速その案を農民たちと共有しながら鉄製の農具を揃えていった。そして農民たちを悩ませていたのは、頻繁に氾濫する売比川の流れであった。そこでセオリツ姫は、共同の普請として売比川の堤を強化することを提案したのだった。
「売比川の流れを治めましょう。」
売比川では日常的な流れによって堆積する土砂があり、また毎年、春になると雪解け水の洪水とともに上流の山岳地帯から礫の混ざった土砂が流れてくる。また川は深く流れの遅い淵と浅く流れの速い瀬が断続的に連なっており、流れが岩盤にぶつかると深い淵をつくり、速い瀬は河岸を浸食しながら自然の堤を形成していった。氾濫が起きやすいのは川が蛇行している外側であり、土砂が中心の自然の堤にさらに礫や石による人工の堤を積み増し、氾濫を防ぐこととしたのだった。
土砂の上に礫を積み増すと、その上を水流が洗っても掘削されづらい洗い越しを造ることができる。またもし水流が堤を越えても、水流によって削られにくい堤は住民たちが避難する時間を稼ぎ浸水場所を制約する効果がある。河川流域の様々な状況や地質に応じて、堤を高くし水流に強い土で固めて洪水被害を抑えるやり方を、治水と呼ぶようになった。
「まだまだ暑いですが、秋の実りを祈りましょう。」
その夏は異常なほどに暑かった。多久比禮志神社で祝詞を上げているセオリツ姫の顔には、汗か涙か分からない液体が顔を伝っていく。秋の豊作を祈願する道饗祭を次は鵜坂神社でも執り行なう予定だ。毎年の五穀豊穣に感謝するのは大切なしきたりであり、人々の暮らしを守っていくためには欠かすことのできない行事である。一方で氏子である農民たちを定期的に一同に集め、情報交換するのは農業や土地改良、治水といった普請を調整するためでもある。実際に道饗祭の前には話し合いの機会を持ち、終了後には宴を催すといった形で結束力を高めているのだった。
売比川の東岸に位置する多久比禮志神社の氏子と西岸に位置する鵜坂神社の氏子は、あまり仲が良くなかった。農業するための水を引く争いは常日頃から起こっており、また売比川の堆積物や河岸に生える葦を使うに当たっても諍い事は絶えなかった。双方の神社の巫女を兼ねているセオリツ姫にとって、氏子同士の関係性悪化は頭の痛い問題であった。
秋の長雨が続き、売比川がまた氾濫しそうだ。農民たちも収穫を前にして、堤が決壊しないか気が気ではない。鵜坂神社の氏子たちが何やら境内に集まって騒いでいる。セオリツ姫が駆け付けると、農民たちは農具を抱えながら叫んでいる。
「対岸の堤を切って、洪水を向こうにやろう。」
なんと、決死隊を結成して対岸の堤を切りに行くと息巻いているのだ。そうすればこちら側の被害はなくなり収穫物は無事である。セオリツ姫は驚いて、農民たちを押し留める。この両岸の堤は洗い越しとして強化しているので、少しばかりの越水には耐えられる。堤を切るなんてことをしたら、それまでの努力がまさに水泡に帰してしまう。
セオリツ姫は一人、洪水の只中にある売比川に舟で漕ぎだした。対岸にある多久比禮志神社の氏子たちの様子を確認するとともに、双方に対して思い留まるように説得するためだ。急流の中、浮かんだ枯葉のような小舟が右往左往している。その時、ひと際大きな丸太が上流から落ちてきた。セオリツ姫の乗った小舟に丸太が直撃する。小舟はバラバラとなり、川底へと沈んでいったのだった。
身を賭して両岸の農民たちを守ったセオリツ姫は治水の神として神格化され、セオリツ姫が通った両岸の住民たちはこの川をいつしか神通川と呼ぶようになった。