第七話:日野川と国引き
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『斐伊川に流るるクシナダ姫の涙』
「八叉のオロチは火ノ川に住んでいる。」
コノハナサクヤ姫は子どもの頃から、言い伝えを聞いていた。火ノ川では度々洪水が発生しており、その度にオロチが来たと農民たちは怖れている。火ノ川では下流域に砂が蓄積し、砂洲や砂の自然堤が多く形成されている。そしてそれらは火ノ川の気まぐれで流路を変え、度々農民たちの暮らしを脅かしていたのだ。まさにオロチのように、その首がいくつも分かれてクネクネと土地を呑みこんでいく。
コノハナサクヤ姫の記憶の断片には、すでに六人の姫たちがオロチのために命を落としている。雲国に住むコノハナサクヤ姫にとっても他人事ではない。記憶を辿りながら鉄の農具をつくり、墳丘を盛り、堤を造り、河畔林を植え、水路を整備して下流地域は豊かになっている。この地域は米がよく穫れるため米生郷と呼ばれるようになった。
「酒だ、酒を持ってこい。」
昼間は汗水垂らして働く農民たちにとって、数少ない娯楽は夜に酒を飲みながら神楽の舞いを見ることだった。コノハナサクヤ姫はそんな酒と神楽を提供する役割を担っており、男たちからは絶大な人気を誇っている。コノハナサクヤ姫が造る口嚙み酒は男たちが腕づくで奪い合うほどであり、妖艶な神楽を見ようと黒山の人だかりができている。
酒がどんどん運び込まれてくる。酩酊した男たちは気が大きくなり、そしてその場の勢いで、火ノ川から流れ出た砂を使って島根という北の半島と弓なりの浜を造って結んでしまおう、という案が出た。そうすれば農地が拡大し、美保関まで歩いて行けるのではないか。
「よし、雲国の北方に新しい大地をつくろう。」
農民たちは秋の収穫が終わると農閑期に入り、仕事が暇になる。一方で近年、火ノ川では上流から流れてくる砂の量が増えており、河口付近では河床が上がって洪水が頻発するようになっていた。そこで河床を掘り下げるとともに、そこから浚渫した土砂を新しい土地を造成するのに利用することを思いついたのだ。
さっそく、農民たちは砂浜を造る事業に着手していった。火ノ川河口付近の河床を掘削し河道を拡げ、そこから出た土砂を運んで浜を形成していく。気の遠くなるような作業だったが、この地域では冬になると東から強烈な風が吹くため、ある程度火ノ川の河口から砂を流せば弓なりに堆積していく。やがてその地は弓ヶ浜と呼ばれるようになった。
「ついにオロチ様に打ち勝ったのだ。」
秋になって収穫のときを迎えた。今年は豊作で、農民たちも黄金の沃野に満足した表情を見せている。どうやら海水面も上昇しているようで、火ノ川河口付近の流路はそれほど暴れなくなってきている。そしてその機会を逃さずに、堤を築いて火ノ川の流路を封じ込めることに成功したのだった。
ある日、北から黒い流れ雲のような一筋の蠢きが見えた。コノハナサクヤ姫は農民たちと空を見上げながら、不気味な胸騒ぎを覚えた。まるで聞いたことのない無数の震えるような音が耳に迫ってくるのだ。それらは徐々に空を埋め尽くしていく。
「む、虫だ!」
雲のように見えたのは、無数の羽虫だった。飛蝗と呼ばれる種類の虫が何万何億も集まり、塊となって飛んできているのだ。虫たちは実った稲に取り付き、黄金の沃野をズタズタにしていく。せっかくの収穫が無に帰していく様子を、コノハナサクヤ姫は茫然として眺めていたのだった。
その年、火ノ川流域では餓死者が続出し、コノハナサクヤ姫は死者の弔いとともに蝗害の祟りを鎮めるために、その命を差し出したのだった。
火ノ川はやがて日野川と呼ばれるようになった。