天皇制はいかに存続してきたか
天皇制の捉え方は様々ですが、日本人にとってはあって当然の存在であり、国家の象徴として位置づけられています。神武天皇以来2700年続く、世界最古の皇統であるという主張についても、歴史的裏付けを以って遡ることが可能という観点では世界的に見ても価値があるものでしょう。
そもそもは国作りの王様だった天皇家は、自ら武力を発揮して大和朝廷を打ち立て、力を以って自らの権力構造を形成したはずです。しかしやがて、唄を詠んだり文化活動に勤しむ象徴的な存在に変質していったのはなぜでしょうか。
律令国家の租庸調
大化の改新以降、律令国家としてのいわゆる徴税を国民に課す権利が、王権の根源となります。天皇は三世一身法や墾田永年私財法によって、開墾した農地の私有化を認める一方で、そこから租税を得ることで権威を維持します。結果として、貴族や寺社といった守護層が自らの荘園を資本力を以って拡大し、そこに住む農民が租庸調を納めるといった労働と資本の分離が見られるようになります。
平安期において、貴族や寺社は各地に荘園を持ちそこに地頭を置くようになります。しかし地頭は滅多に現地に来ない守護層に対して、収穫を過少申告したり農民に対して自ら徴税するといった私物化を図るようになります。そこに登場したのが武士です。貴族や寺社からの委託を受けて、武士は荘園から適正な租税が得られることを保証し、都までの流通を保全するといった威力防衛の機能を提供することで、権力を得るようになります。
農本主義において天皇は便利だった
米本位制の土地管理社会において、貴族や寺社は土地の所有を認める権威として天皇を立てるようになります。そして武士にとっても、天皇制によって創出された租税システムが自らの存在の拠り所となりますから、天皇の存在を利用するメリットが保持されることとなります。
武士の頭領として、源頼朝は鎌倉幕府を東国に創立します。天皇と幕府という二重権力構造はなぜ成立し得たのか、歴史学的には諸説あるようですが東国と西国で並立していたという考え方が有力なようです。鎌倉幕府は武士を中心とした封建主義社会であり、房総半島から海路を含めた流通や貿易を担うことで力をつけ、旧来の荘園制による農本主義な天皇制を脅かすようになります。
天皇制断絶の危機①:南北朝
武士の頭領であった鎌倉幕府も一枚岩ではなく、伊豆半島の海路を保全していた北条氏が実権を握るようになると、東国の山地出身である足利氏や新田氏は次第に不満を募らせていきます。そして海上貿易の港がある大坂を地盤とする楠木氏や、九州の武士勢力が北条氏に対してクーデターを起こし、足利氏を新たな頭領として室町幕府が成立します。
その際にも幕府の正当性を担保するために、天皇は利用されます。しかし、後醍醐天皇という個性溢れる存在がそういった思惑を超えて、天皇個人の能力による専制君主制を打ち出すようになります。そうなると室町幕府にとっては都合が悪くなり、幕府に従順な北朝と後醍醐天皇率いる南朝に分裂して権力抗争するようになります。
しかし武力を持っているわけではない南朝は、すぐに追い詰められます。討伐軍を率いた高師直は「天皇は木像でも良い」という発言をする等、象徴としての天皇はすでにこの時代から成立していたと考えられます。結果として足利家の内部分裂によって南朝が滅ぼされることはありませんでしたが、もしここで最後まで討伐されていたら皇統は途絶えてしまったことでしょう。
紫衣事件と女性天皇
それから天皇家は細々と存続し、室町、安土桃山、江戸時代と武士の庇護の下に存続していきます。織田信長や豊臣秀吉も、足利幕府打倒や自らの出自の正当性を担保するために天皇家を戦略的に利用し、象徴的に戴くことになります。江戸時代においては、禁中並公家諸法度という徳川幕府が定めた法律によって、天皇や貴族は政治活動を厳しく制限されていました。
1627年に、後水尾天皇は大徳寺の沢庵和尚に最高権威の紫衣を与えようとします。しかしそれが幕府の逆鱗に触れ、沢庵和尚は東北に流罪とされてしまいます。失意の後水尾天皇は退位しますが、男子がいなかったために800年ぶりに女性天皇が即位するといった事態になりました。
専制君主を目指した明治天皇
幕末になり、長州藩や薩摩藩といった討幕運動の中心となった勢力は再び天皇の権威を利用して幕府を打倒する正当性を担保するようになります。そこに登場した明治天皇は、実は後醍醐天皇と同様に専制君主制を目指すリーダーシップと能力を持つ人物でした。大日本帝国憲法において、統帥権を天皇の大権とすることによって念願の武力を獲得することに成功し、男性的マッチョなイメージを喧伝するようになります。
現代に連なる男系を基盤とした家父長制や戸籍制度も、富国強兵を進めるためのイメージ戦略と相まって日本の国家を形成する要素として認識されるようになります。それと同時に、南朝時代の皇国史観が見直されて神の子=天皇を中心とした一致団結を促すといった国民運動が高まり、太平洋戦争へと突入していくこととなります。
天皇制断絶の危機②:敗戦
太平洋戦争敗戦時に、連合国軍最高司令官であったマッカーサーは昭和天皇を退位させて天皇制を終わらせるかを検討していました。結果として、象徴天皇制という選択が採用され、昭和天皇は戦争責任は免れたものの、その生涯をかけて全国の戦没者慰霊や遺族慰問を繰り返すこととなります。
アメリカがどうして天皇制を維持することにしたのかは諸説ありますが、軍事力を持たない国家がその求心力を維持するためには、象徴となる存在が必要であるという考え方があったからと言われています。いずれにしても、敗戦を境にそれまでの国父としてのマッチョな存在であった天皇が、優しそうに国民に微笑むおじいちゃんという180度転換したイメージに成り代わり、平成天皇もその系譜を継いでいると言えます。
割とカジュアルに変化を受け容れる天皇家
このように歴史を紐解いていくと、天皇に求められる役割が次第に変化していく中で、天皇という個人のキャラクターも変化の大きなポイントで強く打ち出される傾向にあると考えられます。後醍醐天皇や明治天皇のように、形骸化した権力を取り戻す野心や能力を表出化させたケースでは、密教や洋装を取り入れるといった外見にもその特徴が現れます。
一方で、歴史上の大多数の天皇は個人としての意見や才覚は求められず、ただ象徴としての存在を全うしてきただけです。大和朝廷が成立する背景に朝鮮半島における白村江の戦い敗戦があり、鎌倉幕府の権限強化の背景に元寇があり、明治維新の背景に黒船来航がありました。そして太平洋戦争敗戦と、天皇制の存続には外圧が大きく関わってきたことも確かです。
外圧に負けない国家求心力を得るために、天皇という存在を時の権力者が政治利用して国民への説明を省いてきたという考え方もできるでしょう。その意味においては、グローバル化が進展する現代も新たな外圧に曝されていると言えます。令和の時代にどのような天皇像が期待されるのか、歴史学者としてのキャリアも持つ令和天皇の姿を見ていきましょう。
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