国立大学はL型G型を目指すべきか
経営共創基盤・冨山和彦さんの提言が波紋を呼んでいます。論旨としては以下の通りです。
全国86大学への1兆円を超える税金を原資とした運営費交付金には正当性はなく、グローバルで通用する高度なプロフェッショナル人材を養成する「G(グローバル)型大学」と、生産性向上に向けた働き手を育てる「L(ローカル)型大学」に峻別して自律的に運営すべきだ。
まず私自身の立場を明確にしておくと、新卒以来約15年間の民間企業~フリーランス起業という民間での経験から、本年4月より2年間の任期(延長なし)で地方国立大学教員として奉職する人間です。内部でありつつも、アカデミアでの出世や組織内部への遠慮や忖度が一切ない役職であることを踏まえて、個人の責任において意見を述べていることに留意してください。
L型大学として地方国立大学に求められる機能
大学の運営費交付金においては、各大学の戦略目標を掲げて、それに伴ったKPIの達成状況によって増減されるという競争的に資金を獲得するものとなってきています。私が常勤で在籍する三重大学においてはA評価を獲得して110%程度で推移する一方で、非常勤で携わっている茨城大学では90%以下に減額されるといった、20-30%も運営費交付金が上下するといった評価に晒されています。
三重大学においては地元就職率および地元高校生の志願者数といった地域密着型の人材育成機能を目標値として掲げており、また「三重創生ファンタジスタ」という副専攻認定資格を全学横断でカリキュラム化して選択できるようにしています。
さらに地元企業との連携という意味で、インターンシップの充実や共同研究の展開、社会人学生(リカレント教育)の受入れといった産学連携の取組み強化が求められるため、民間人材である私のような立場の教員はどちらかと言えば対外的に動くことが主務となっています。
L型大学として求められる機能としては、総花とも言える形で取り組んでいると言えるでしょう。つまり、L型大学にとっては営業や提案といった、これまでの大学教員には求められてこなかった役割を期待されていると考えられます。
ちなみに私が社会人学生として通った一橋大学においては、G型大学を目指す方針の下、国際的な学会やジャーナルに掲載される査読論文数や、国内外の研究機関との学際的な共同研究といった取組みが中心となっていました。カリキュラムにおいても毎週のように英文論文を読んでその内容を論述する、東大や阪大といった他大学と交流してディベートするといった結構ハードな授業が多かったことを覚えています。
アカデミアにおける出世は誰が決める?
こういった運営費交付金を巡る取組みが大学内に浸透するためには、ガバナンスの改革が不可欠です。これまでのように教授会が絶大な権限を持ち、学長や学部長は名誉職であれば良かった時代ではなく、学長や理事は経営者として大学の舵取りを担っていく役割を求められます。
学長に権限を集中させるためには、人事権を一手に把握して全体最適を考えた人員配置を行なう必要があるでしょう。しかし大学教授は学問はできても経営ができるわけではないために、一朝一夕で変革が進んでいく状況にはなっていません。
現在が過渡期であるのは、教授>准教授>講師>助教といったヒエラルキーの裏に[常勤/非常勤]、あるいは[任期なし/任期付き]という別の階層構造があることです。ほとんど社会人の副業感覚な任期付き非常勤講師を大量に増やしつつ、常勤教授職の限られた椅子は平均年齢50歳以上の既得権益層がガッチリと保持している構図は、若い研究者にとっては絶望感を持たせる環境になっています。
一般企業であれば株主や取引先からの働きかけも有り得ますが、この象牙の塔においては内部の論理が殊更強い状況となっており、そこに学長を中心としたガバナンス体制を導入すると下手すれば独裁状態になりかねない両刃の剣とも言えるでしょう。
G型/L型の議論はすでに周回遅れ
こういった与件を踏まえて、冨山氏が述べられているような話はすでに制度としては実装されています。「自律的に運営すべき」という言葉の含意には経済的なところも含まれると考えられますが、それは高等教育の無償化や奨学金のような実質的な借金と呼べる別の課題とも繋がるため、すぐに結論を出せるものではありません。
本質的な課題と言えるのは、この実業界と学術界のマウンティング合戦とも呼べるような人的交流の少なさでしょう。実業界は民間の効率性を語り、学術界は拝金主義や刹那性をバカにするといった相互理解の薄さこそが、本来であれば優秀な経営者が大学に入り、社会人がキャリアアップのために学術界の門を叩くといった行き来をしづらくさせていると感じます。このバカの壁をどうやって壊していけばよいのか、是非とも実務家の皆様と議論していきたいと考えています。