多様性の失われる街
乙武さんのエントリーを読んで、日本全国の街に多様性が失われている現実に改めて気づきました。だいたいどこの街も、路面店舗や個人商店は閉店に追い込まれ、大型商業施設やチェーン店による無個性な街並みが広がっています。
日本全国、ユニクロやニトリ、イオン、マクドナルドといったナショナルブランドで均質な商品やサービスを受けられ、セブン・イレブンやオリジン弁当は深夜まで営業して便利です。それらは確かに私たちの暮らしを豊かにしましたし、もはや公共サービスとも呼べるほどに多くの地域の基盤となっています。
日本の多様性が乏しい理由
大型商業施設に行くと、施設内においてはバリアフリーが行き届き、男性トイレにもベビーベッドが設置されるなど多様性に非常に配慮していることが理解できます。しかし一歩その外に出ると、施設周辺には壁がそそり立ち、申し訳程度に禁止事項ばかりの広場があるといった状況です。
そこに見え隠れするのは、「何かあったらいけない」という責任回避の姿勢です。もし大型商業施設の敷地内で事故や揉め事が起これば企業の責任にされてしまう世の中ですから、なるべく不確定要素を排除したいという思惑が働きます。そこには子どもたちが無邪気に走り回っていたり、老若男女が世間話をするといった光景は見られません。
企業が消去法でマーケティングした結果
企業がこういった責任回避型でサービスや施設を設計すると、没個性的な最大公約数のものが出来上がります。予想が容易な予定調和を好み、設計者の思惑以上には驚きのない体験が待っている状況においては、イノベーションは生まれないでしょう。
どこかに正解があるという採点主義でつくられた人工空間で、多くの人々は子育てして老いて死んでいくことになります。それはまるでSFに出てくるスペースコロニーのように。誰かの考えた思惑のなかで、誰かが考えた社会システムによって生かされた人々は、自らの想像の埒外にある存在を認知できるのでしょうか。
今の日本では標準家庭はマイノリティ
そもそも、統計やマーケティングにおいて標準家庭と呼ばれる、男女の夫婦と2人の子どもといった層は10%に満たない存在です。しかし多くのサービスや商品は標準家庭をターゲットに設計され、そうではない層を排除しがちです。施設内においては多様な人々を包摂する空間づくりをする一方で、施設外では禁止事項だらけの没個性な場が再生産され続けています。
大型商業施設やチェーン店が悪いのではなく、それらを消費する人々の想像力を欠如させるような社会が多くの地域を覆い尽くしつつあるのではないでしょうか。決して昔が良かったという懐古主義にまとめる気はありませんが、SDGsのようにより多様性を包摂する方向性に動くべき世の中の流れに対して、我々の生活のラストワンマイルがあまりにも保守的な価値観に支配されている現状は、なんとなく漂う閉塞感の正体となっています。