真田幸村という武将は存在しない
真田幸村と言えば、豊臣家に最期まで仕えた悲運の武将として人気です。しかし、厳密にいえば幸村という名を使った事実はなくて、真田信繁という正式名があります。父・昌幸とともに、徳川家を苦しめた真田家の武勇はいかにして伝えられてきたのでしょうか。
ほとんど上方住まいだった真田信繁
信繁が誕生したのは、1567年から1570年と言われています。初陣は1585年の第一次上田合戦とも、1589年の小田原征伐とも言われています。この辺りの幼少期は資料が乏しいために明らかになっておらず、幼い頃から人質として国許の上田を離れることが多かったようです。
とくに1594年には豊臣姓を賜り、秀吉の馬廻衆として1万9000石の独立大名になっています。伏見城周辺に屋敷を構え、どちらかと言えば豊臣政権の高級官僚として事務的な仕事をすることが多かったようです。つまり、初陣はほとんど天下統一されたタイミングであり、ほとんど実戦経験がないままに文官としてキャリアを積み上げていったことになります。
徳川秀忠を足止めした第二次上田合戦
信繁が最初にその武名を全国に轟かすのは、関ヶ原の戦いの際に発生した第二次上田合戦でしょう。徳川軍の主力部隊である徳川秀忠率いる約4万の大軍を上田に足止めさせ、秀忠は天下分け目の戦いに間に合わずに家康に叱責されたと言われるものです。実際に信繁は父・昌幸とともに上田城に籠城し、徳川軍と戦っています。
この際に兄・信之は徳川方に付き、真田親子は犬伏の別れと呼ばれる有名なエピソードによって東軍西軍どちらが勝っても真田家が存続するように図ったと考えられています。この第二次上田合戦は現実には徳川方にはほとんど戦意はなく、連絡体制の乱れで秀忠軍が停滞していただけだったとも言われます。
真田丸は誰の設計か?
信繁の代名詞と言われる、1614年大阪冬の陣において大阪城に構築された出城「真田丸」は、大河ドラマの題名にまでなりました。果たしてこの真田丸とはどのようなものだったのでしょうか。実はあまり資料が残っていないため、なかなか実態が掴めていないというのが実情のようです。もともとは大阪城の弱点となり得る場所に出城を構築する考えが後藤又兵衛などから出され、実際に材料などを調達した上で信繁に構築と運用を任せられたと言われており、設計段階では他の武将が関与していたことが有力です。
いずれにしても、真田丸で奮闘したのは信繁とその配下であり、徳川方が攻めあぐねたことは事実です。しかし、東軍方の攻め手については前田利常、井伊直孝、松平忠直といった若年の手柄に焦る武将たちが、経験不足から兵たちの統率を執れずに真田丸の堀や塀に嵌ったといった失策も指摘されています。
真田信繁はどうやって戦術眼を身に着けたか
ほとんどが上方住まいだった信繁の生涯においては、実戦と呼べる経験は第一次・第二次上田合戦くらいしかありません。その経験のみでどうして大阪の陣でこれほどの獅子奮迅な活躍をすることができたのでしょうか。実際に夏の陣においても隊を3つに分けて徳川家康本陣に突撃し、家康に自害を決意させたという逸話もあります。
関ヶ原の戦いの後に改易された昌幸・信繁は、兄信之の助命嘆願もあって高野山九度山に流刑となります。そこで10年以上に及ぶ蟄居を強いられる中で、父と兵法について議論を交わしたり、様々な古典兵法書を読み込んだと伝えられています。自らが求められる時代が再び来ることを信じて、意欲を失わずに努力し続けたからこそ、後世まで伝わる活躍をすることができたのでしょう。