与えられた環境、掴み取る環境
noteで10代の子が書いた瑞々しい文章が話題です。世の中の不条理や理不尽に対して怒りを覚える気持ちは良く分かるし、かつての自分もそのような社会を変えていきたいという熱量を持っていたように思います。
生まれる環境を選べない子どもたち
数年前に、この文章に出てくるHLABで講演する機会がありました。徳島県の海辺の田舎町に首都圏の一流大学の学生たちが集まり、地元の中高生とともにワークショップを実施するといった内容です。地方創生の最新事情を教えてもらいたい、というオーダーだったのですが、いわゆる意識高い系の大学生たちは質問をガンガンしてくる一方で、居眠り交じりで消極的に聞くだけの地元中高生という構図の差が印象的でした。
その後、地方大学で教えるようになって気づいたのは、厳然たる教育格差という問題でした。私自身は、小学校は公立でそこには知的障がい者であったり、シングル親の子どもが今思えば存在していました。そこから受験を経て私立中高一貫校、いわゆる一流大学に進学するような教育を受けるなかで、どんどんと同級生が同質的になっていく感覚がありました。
小学校時代の同級生は何をしている
実際に自分でも地方国立大学で教鞭を執るようになって、そこで学ぶ学生たちはそれなりの知的水準を持ち、指示すればそれを即座に理解するようなコミュニケーション能力を持っていました。私にとっては当たり前の感覚ですが、一方で地方の現状を知る者としては、まったく日本語の通じない人だったり、マスメディアから流される扇動的な情報を鵜呑みにするような高齢者も存在するのだと理解しました。
恐らくは小学校時代の同級生も、今では40代になって何かしらの役割を社会で担っているのでしょうが、これまでもこれからも意識的に働きかけなければ交わることはないのだと感じています。犬の散歩がてら地元を歩いたとしても、すれ違った人が同級生だったとは気づかないでしょう。SNSで繋がるような同級生も中高以上の階層であることがほとんどで、昔のmixiならまだ見つけられたかもしれないけどFacebookではまず見つからないです。
配られたカードで勝負するしかない
20代くらいまでは、割と家庭環境や与えられた教育水準によって人生が左右されることが多いと感じます。しかし、30代、40代と年を取るにしたがって自分で選択する機会も増えてきます。あるタイミングではリスクを取って挑戦することが求められ、またあるタイミングでは失敗してお先真っ暗な状況になることもあるでしょう。少なくともそういった経験をしていくことは、自分自身の環境を掴み取っていく感覚を得られるでしょう。
香港で民主活動家が逮捕されようと、モーリシャスで原油タンカーが座礁しようと、私たちの世界は毎日同じように繰り返されていきます。世界中のニュースを知覚できる社会にはなったけれども、私たちは自分たちの暮らす場所で日々できるだけ身の回りから世の中を良くしていくことでしか、社会を変えることはできません。中には親や先生と同様に、上司や友人が助けてくれるケースもあるかもしれませんが、他人から与えられるだけの人生はやがて息苦しさを感じてしまうことになります。
40代になって、若い頃のように社会に憤ったり、不満をぶつけることは少なくなりました。それは自分の人生はこんなもんだと諦めたというよりは、環境とは誰かから与えられるものではなくて自ら掴み取るものだと考えるようになったからです。いま一緒に働いている仲間も、高卒だったり高専卒だったり、芸大卒だったり博士号を持っていたり、様々なバックグラウンドがあります。同質ではなく多様性こそが、新しい価値を生む時代です。是非とも未知の環境にどんどん足を踏み出していってもらいたいですね。