災害の記憶は風化するもの、という前提
3月11日は、東日本大震災が起こった日。今は多くの人々があの日を思い起こし、また2011年3月11日当日のことをハッキリと覚えている人も多いでしょう。7年前の3月10日であれば記憶も曖昧になっているところ、あの地震と津波の衝撃は今でも思い出すと心が揺れ動きます。
そのときに感情を持つ人々の一次情報
7年前の3月10日ではなく、73年前の1945年3月10日は何が起こった日か知っていますか?この日は東京大空襲があり、10万人もの人々が亡くなっています。東日本大震災に比べても死者の多い戦災に対して、今ではほとんど哀悼の意を持つ人々は減っているのが実際のところなのではないでしょうか。
昨年、江東区にある東京大空襲・戦災資料センターに行き、当時の被災状況や体験者のインタビューなどを見学してきました。私自身はもちろん戦争を体験していませんから、二次情報としてこの東京大空襲を知ることになります。そしていくら情報をインプットしても、3月10日に特別な感情を持つことはありません。
中越地震の記憶とその後
同様に、2004年10月23日に起こったのが中越地震です。首都圏が直接被害に遭わなかったこともあって、今ではほとんどの人が覚えていないのではないでしょうか。でもこの中越地震があったからこそ、東日本大震災において警察・消防・自衛隊といった災害救助活動がスムーズに連携した面があります。
また、中越地震で集団移転や災害復興の事業が進められたことで、東日本大震災の高台移転や復興支援のモデルがつくられました。震災復興にはそこまで悲壮感が漂うわけではなく、むしろイノベーションの機会に転用できるほどに人間はたくましいのだ、と個人的に実感した経験もあります。
震災が生み出したヒーロー・羽生結弦
もう一つ忘れていけない存在として、記憶にも新しい平昌オリンピックで男子フィギュアスケート2連覇を達成した羽生結弦選手がいます。彼自身が東日本大震災の被災者であり、避難所での生活やアイススケートリンクが使えなかった状況をインタビューなどで語っています。
あのメンタルの強さや、完璧な受け答えといったしっかりとした人間性には、東日本大震災が大きな影響を及ぼしていることでしょう。東日本大震災があったからこそ、オリンピックでの活躍があったというのは言い過ぎかもしれませんが、大怪我を押して強行出場したのは少なからず被災者への想いもあったのでしょう。
そして羽生選手に限らず震災を経験した若者たちは、生死を間近に感じて自分が生かされた意味や人生の目標を明確に意識しているように思います。もちろんそれがプレッシャーになってしまうこともあるでしょう。いずれにしても、震災に対して一次情報としての記憶を持っている人々にとっては、3月11日は特別な日となっています。
一次情報を持つ世代が移り変わっていく
東日本大震災の記憶も、10年20年と時間を経るにしたがって、一次情報としての体験を持つ人々が減っていくのは自明です。それを記憶の風化と呼ぶのか、少なくとも体験した本人たちの記憶はいつまでも明確に残ることでしょう。二次情報としての教訓や対策をいかに残して、同様の地震や津波が起こった際に被害や復興を効果的に進められるようにすることが重要なのではないでしょうか。
そして忘れてはいけないのは、原発事故が起こって放射性物質の被害は収束していないということです。これは数十年から百年かけて考え続けなければならない課題であり、将来世代に対して私たちが背負い続ける十字架でもあります。災害の記憶が風化しても、この被害だけは絶対に繰り返してはならないと強く思います。自分の人生を通じて、このことは伝え続けたいです。