武田氏はどうして滅びたのか
戦国最強の大名として知られる武田氏は、1582年に織田軍の侵攻を受けて滅ぼされます。名将・信玄の後を継いだ勝頼は愚将という扱いをされてきましたが、近年になって再評価される動きもあります。実際に勝頼の代においては、甲斐・信濃に加えて駿河や上野までも版図に加え最大の勢力を誇っていました。
長篠の戦いは鉄砲の勝利だった?
武田氏が滅亡に至るプロセスについては、大きく3つのエピソードが関係しています。まずは長篠の戦い、これは武田騎馬隊が織田徳川鉄砲隊に負けた、旧来の武家が足軽に敗れたとされ有名です。しかし、その実態は長篠城の籠城戦とそれに続く設楽原での対決という2つの戦いが複合されたものです。
1575年、武田勝頼は長篠城を接収するべく、約1万5千の兵を率いて出陣します。これは当時の武田氏の動員兵力の半分であり、織田徳川と決戦を挑もうとしたわけではないと言われています(前年の高天神城攻城戦では約2万5千を動員)。しかし、長篠城には奥平貞昌という勇将が500の兵とともに籠城しており、彼らの奮戦が織田徳川連合軍約4万の援軍を呼びます。
その後、退却を進言する家臣たちの意向と反して、設楽原において戦うことを武田勝頼は決断します。兵力差がありつつも、どうして決戦に傾いたかは様々な説がありますが、結果はご存知のとおり川沿いに馬防柵を設置して鉄砲隊による銃撃を加えた織田徳川連合軍が勝利しました。しかし、実際には柵と川を挟んだ長槍による応酬が主だったとも言われており、戦術的に優位な地形を掌握した数に勝る織田徳川連合軍が優れていたということでしょう。
御館の乱における北条氏との訣別
1578年、上杉謙信の跡目を巡って上杉景勝と景虎が争った御館の乱に対して、武田氏も介入するようになります。当初は北条方からの要請から、北条氏康実子の景虎を支援するために武田信豊の2万の大軍を北信に派遣し、信玄の代から悲願であった川中島の接収に成功します。
すると今度は景勝方から和睦交渉があり、上野沼田の割譲と黄金の提供が条件となって武田氏は景勝方に転じます。甲越同盟の締約に伴い、御館の乱の趨勢は景勝方に傾くとともに、北条氏との関係は悪化してついに甲相同盟が破棄されることとなります。勝頼は配下の真田氏を通じて北条氏が支配していた上野を切取り次第で併合していき、ほぼすべての国衆を掌握するまでに至ります。
高天神城の戦い(第一次・第二次)
遠江の先端に位置する高天神城は、太平洋海運を司る要衝として武田氏と徳川氏が奪い合いをしてきました。まず1574年に武田勝頼は大軍を率いて高天神城を包囲し、信玄が落とせなかったこの城を占領することに成功します。この成功体験が長篠の戦いにおける過信に繋がったとも言われています。
1581年に徳川家康は、再び高天神城を攻略しようと動きだします。周辺に砦を築き流通網を遮断するとともに、海上交通も厳しく制限して高天神城を孤立させ、兵糧攻めによって干上がらせる作戦を実行していきます。武田軍は甲相同盟の破綻によって北条氏の動きを警戒せざるを得ず、高天神城へ救援を出せないままに落城してしまいます。
この高天神城に籠城していた武将には、信濃や上野の有力国衆が多く、そこに勝頼が応援を出さなかったことで多くの国衆が落胆して心が離れてしまう遠因となります。そしてこの高天神城を攻略したことで、織田徳川連合軍は勢いづいて翌年に本格的に武田領に侵略していきます。
浅間山の噴火が武田領の対応力を奪った
1582年2月に浅間山が噴火します。時期を同じくして甲州征伐に乗り出した織田軍は、木曽義昌の寝返りをきっかけに木曽谷・伊那谷から信濃に侵攻していきます。すでに武田氏への忠誠心が薄れ、織田の大軍を目の前にした国衆は次々と恭順していき、ついに織田軍は仁科信盛が守る高遠城を包囲します。勝頼の弟の信盛は唯一奮戦し、自害して果てます。
その後、諏訪から新府へと後退した勝頼は、小山田信茂を頼って都留郡まで逃亡することを試みますが、ここでも裏切りに遭って途中の田野において織田方と交戦、多勢に無勢で一族郎党自害して武田氏は滅亡します。最大240万石の版図を持った武田勝頼の最期に付き添ったのは、たった43名と言われます。この3ヶ月後には本能寺の変が発生するわけですから、運命とはタイミングとその時々の決断の積み重ねだと言えます。
武田氏が滅亡した大きな原因
こうやって俯瞰すると、偉大なる先代の後を受け継いだ武田勝頼は、東西南北を飛び回って領土を拡大していきながら政治的にも上手く立ち回っているように思います。一方で長篠の戦いにおいて馬場信春・山県昌景・内藤昌豊という武田四天王のうち3名を失い、また御館の乱の直前に春日虎綱(高坂昌信)も失って譜代の宿老がすべていなくなってしまったことで、判断が短絡的になってしまったのも否めません。
結果として高天神城の落城から有力国衆の離反が広がっていき、天変地異と相まってドミノ倒しのように織田方へと裏切りが相次いだというのが、二代目当主の難しさとあくまで陣代として側室の子である勝頼が率いる限界を示していると考えられます。領土を拡げたが故に、一つのエリアでの破綻がすべての版図に影響する領国支配の難しさは、武田氏を滅ぼした織田氏にも言えることだったのです。
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