東京以外の地方が生き残るために取るべき戦略とは
このようなエントリーは定期的に話題になりますね。東京と地方の格差を嘆き、その叫びが更なる分断を生んでいく連鎖。個人的には、日本という国のせいにするヒマがあったら、他者との相対評価のなかで自分の幸せを見つけようという、自分自身にかけられた呪いを解くことをおススメします。
日本から捨てられた土地など存在しない
実は、この書き手の出身地のような地域のまちづくりを担ったことがあります。北海道など北国の自治体はどこもそうですが、行政予算の半分以上が国からの交付金で賄われており、さらに除雪や寒さ対策の燃料費といった名目で補助金が支給されています。凍結融解の繰り返しとスタッドレスによって痛めつけられた道路はほぼ毎年のようにメンテナンスされ、北海道における土建業の強さは南国とは比較になりません。
例えば私が奈井江町でお世話になった土建業の「砂子組」は、最先端のIoTを取り入れたインフラメンテナンスの仕組みを若手社員に任せてプロジェクト化するなど、地域で暮らしつつ足腰の強い事業モデルを構築しています。東京での巨大プロジェクトのスライスされた一部の仕事を担うよりも、これら地域で役立つ仕事の全体をコーディネートする方が自分が役に立っている実感を得られやすいと思います。
また、奈井江町の隣の砂川市では、「いわた書店」という一万円選書で有名な本屋さんがあります。教育分野へのコミットも熱心で、地元小中学生に対しては参考書などの取り寄せも応じてくれるようです。もちろん、北海道では無書店自治体のような教育基盤の崩壊が課題となっていますから、よりこういったお店も必要になってくるでしょうね。
根強い相対評価の偏差値教育の弊害
「都市と地方」「高学歴と低学歴」といった、二項対立での相対評価をする風潮は現在の日本において息苦しさを助長するような表現だと感じます。いくら考えたり議論したとしても、自分自身の境遇や学歴といった配られたカードを変えられるわけではありません。また、他者との比較の中から幸福を見出そうとしても、恐らくは上を見ればきりがないといった感じになるでしょう。
もちろん、若者たちがこれまで受けてきた偏差値教育の影響で、価値観を規定されるのは仕方のないことなのかなとも思います。しかし、良い大学を出れば良い企業に入社できるといった前提条件が崩れつつあり、東京での仕事自体がゼネラリスト的なある意味無難な事務仕事を集積している現実があり、そのキャリアが果たして今後生き残っていけるかは未知数でしょう。
過疎地域でチャンスを見つける若者たち
兵庫県宍粟市という、かなりアクセスの悪い山間地の高校生がドローン撮影で起業したとして話題になりました。海外アーティストのPV撮影といった派手な面が取り上げられていますが、防災や農林業、建設業の現場確認といった様々な用途が手堅く存在し、かつ都市部と比較してもドローンを飛ばしやすい環境がたくさんあって腕を磨くことも容易でしょう。
とくに玉石混合なYouTuberのような業界も、仕事としてしっかりと成功するためには脚本⇒撮影⇒編集⇒PRといった一連の映像業務に対して一定のスキルを高める必要があり、それらは今後VRや5Gといった技術革新が進むにつれリッチな表現が可能となりますから、将来のポータブルスキルになり得るキャリアを積むことができます。この高校生は映像や経営を学ぶために進学したいと考えているようで、将来有望ですね。
その地方の与件を活かして若者たちの機会を創出する
兵庫県豊岡市では、日本初となる公立の芸術文化観光専門職大学が設立されました。演劇という専門職を通じて、それを地域での文化や観光といった産業創出に結び付けていこうという意欲的な内容となっています。豊岡は城崎温泉をはじめ、滞在型観光やワーケーションのような中長期の逗留に適した地勢ですから、まさにこの戦略は地域ならではの取組みでしょう。
同様に広島県では、叡啓大学というSDGsのような持続可能性に特化した県立大学が新たに設置される見込みです。地元企業への長期インターンシップなど、産学官連携での地域で若者を育てる意志が明記されつつ、企業のサスティナビリティへの対応やグローバル展開などを担うためのリベラルアーツがカリキュラムとして取り入れられています。
これまでのように、地方国公立大学が総合大学として文系理系のカリキュラムを提供して、平均的な人材を育てるといった時代ではなくなりました。むしろ特定分野での専門性を磨きつつ、それらが若者たちの可能性を伸ばしていくといったコミットメントを地域全体で図っていくことが、将来的には選ばれていくようになるでしょう。若者たちを偏差値教育の呪いから解放し、専門性を学ぶために地域資源を活かしていくことが、日本という国全体の多様性を発揮していく王道と言えるでしょう。