ゴジラが怪獣映画ではなくなった日
ゴジラ映画は欠かさず観ているので、『シン・ゴジラ』も公開初日に勇んで行ってまいりました。いやぁ掛け値なしに面白かった!東日本大震災を経て、現実=リアルが虚構=フィクションを上回った感がありましたが、それならば徹底的にリアルを追求すれば良いのだという発想の転換が見事でした。
実際にこの映画におけるゴジラは怪獣ではなく、巨大不明生物として最後まで日本政府がその存在を災害に準じるものとして扱っています。想定外と連呼する閣僚、予定調和の会議における右往左往ぶり、縦割り組織での役割とそれを全うしようとする政治家たち、、その姿はまさに東日本大震災のときの状況を暗喩していることは明白です。
時代背景を踏まえたゴジラの‟進化”
1954年に「水爆大怪獣」として誕生したゴジラは、常に時代背景とそのときのニュースや社会構造とともに歩んできました。私自身もそれら作品をすべて観賞して、ある意味勉強になった部分もありました。
そして今回のシン・ゴジラは再び人類社会を脅かす存在として描かれ、しかもほとんどの攻撃が通用しないという人智を超えた完全生物として東京に侵攻してきます。ただし、ここでもゴジラが暴れまわるという従来のスタンダードではなく、むしろどうやって住民を避難させて国民の生命と財産を守るかという、日本政府側の対応をメインに動いていきます。ゴジラはあまり意志のようなものを感じる存在ではなくただ圧倒的な脅威として日本社会に立ちはだかります。
なかなか自衛隊に先制攻撃の命令を下せない政府首脳、攻撃よりも防衛に命を賭す自衛隊員たち、霞ヶ関の異端的官僚を寄せ集めてつくった特命チーム、国と自治体で連携が取れない多重統治システム、政府が秘匿しようという情報があっという間に伝播していく情報化社会、日米安保同盟の傘の下で一方的な要求を突きつけるアメリカ、タイムリミットまでに必要な資源をかきあつめて国家的危機に対処する民間企業、突如権限のある立場に祀り上げられるもその役割を全うしようとする政治家、、すべてが現代の日本におけるリアルを示しています。
怪獣映画から災害対策・危機管理サスペンスへ
このように物語としての軸足をゴジラという怪獣から日本社会側における人間ドラマに移した結果、『シン・ゴジラ』においてはゴジラである必然性が薄まったように思えます。たとえ怪獣が登場しなくても、大地震や大噴火といった災害が起こったり、それにともなって津波や原発事故が発生した場合の日本政府の対応と、それを取り巻く国際社会情勢や科学技術の進歩といった面を踏まえたパニック・サスペンス映画として成り立つでしょう。
そしてそこに圧倒的なゴジラの大火力による破壊と、徐々に明らかになっていくその生態の秘密が大きな魅力となってストーリーに厚みを与えます。勧善懲悪でマッチョなヒーローの活躍によって世界が救われるような、ハリウッド映画の予定調和とは一線を画した「日本映画ここにあり!」という喝采が与えられるべき作品に仕上がっています。是非とも劇場で観ることをおススメいたします。