いまの日本に足りないのは、“文化”かもしれない。
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。長らく自由業な立場なおかげで、年末年始だからどうこうすることも久しくありません。むしろ12月上旬に早めの休みを取って台湾に遠征し、忘年会の代わりに豪華なランチを食べるといった形で少しずつズラすことを心がけました。
いわゆる賃金労働から離れて久しいのですが、50代を前にセミリタイア的な暮らしをしていると世の中の当たり前と呼ばれる部分に疑問を抱くことが増えます。そしてそれらはコロナ禍を経て、実は必要ではなかったと言われるような要素でもあります。満員電車に乗って通勤することも、会社帰りに飲み会をすることも、今の若年層にとっては当たり前ではありません。
昭和のサラリーマン文化を色濃く残す年末
私の同世代以上、昭和生まれの人たちにとってのスタンダードは、未だにこのサラリーマン文化と呼ばれるライフスタイルに縛られているように感じます。私自身はまったく合わなかったために若いうちにドロップアウトしてしまったのですが、多くの労働者が横並び意識で長い時間を会社で過ごすのは、そろそろマイノリティになりつつあります。
そしてこのサラリーマン文化という同調圧力のような態様こそが、日本の文化的貧困の根源であると感じます。思えばほとんどの経済活動がサラリーマン文化と紐づいている日本の消費社会にとって、このマス層を相手にしていればよかったのが長らく続いてきたマーケティングでした。商品企画は大多数にウケるような無難なものを開発すれば、TVや新聞のマスコミを使って刷り込んでシェアを取っていけば良いというのが長い間の正解でした。
その結果、音楽ではミリオンヒットと呼ばれるCDの売上げチャートで評価されて年末の紅白歌合戦に出場することがステータスとなり、クリスマスにはチキンを買ってお正月にはお節料理やお餅を食べる無宗教ぶりが多くの家庭で楽しまれています。この瞬間最大的に需要が増す消費行動は、まさに同調圧力と自己家畜化によって成立したとも言えます。
『文化がヒトを進化させた』
昨年読んだ書籍で印象に残っているのは、集団生活に蓄積してきた生活文化こそがヒトを地球生態系の頂点たらしめているという論です。私みたいな集団行動ができない人間は、毒のあるものを食べたり危険に遭遇してすぐに命を落とす(実際に子どもの頃から生傷が絶えなかった)タイプでしょう。それでも生き永らえているのは、命に関わるような禁忌を最低限、法律やマナーによって制限されているからと言えます。
上述のサラリーマン文化についても、そこからドロップアウトした人間からすると滑稽にも見えるのですが、文化人類学の観点からいえば正解であると理解できます。正月におせち料理を作るのも、竈の火を消すタイミングを持つことで冬場の火事を防ぐ生活の知恵ですし、初詣のような風習は鉄道会社が寺社を基点に敷設されてきた歴史に起因します。
一方でそろそろ、サラリーマンのような労働者はマイノリティになりつつある現状もちゃんと認識した方が良さそうです。とくにシニア層を中心に、消費者が多様化する中では果たしてサラリーマン文化を堅持し続ける必要があるのか、考え直していった方が良さそうですね。
あらゆる分野のマスを形成したサラリーマン文化
たとえば音楽業界では、海外においてはすでに7割以上の売上げがストリーミング主体であり、日本では逆に未だCDが7割以上といった状況となっています。様々なジャンルの楽曲がリリースされていくなかで、日本では相変わらず歌謡曲と呼ばれるカラオケで歌えるような音楽が人気です。つまり、サラリーマン文化に紐づいた娯楽としての音楽市場がメジャーと言えます。
同様に食の面でも、レストランや居酒屋などでは5,000円前後のコースが主流です。多くの会社において接待交際費5,000円(2024年より10,000円に増額)という基準が示されてきたこともあり、食業界では長らくこの水準を守ることを基本にしてきました。スペインのバスク地方のように、様々な店舗を渡り歩きながらピンチョスのつまみを楽しむといった食の多様性は、サラリーマン文化によって阻まれてきたと言えます。
しかし労働力人口は、現在の7,000万人足らずから2030年には6,500万人、2040年に6,000万人と日本の総人口以上のペースで減っていく見込みです。とくに大企業サラリーマンのような被雇用者はすでにマイノリティになっており、決してマスを形成するような集団ではないのです。しかし、消費者の大多数は昭和のサラリーマン文化を経験してきたシニア層であり、惰性や習慣としてこの横並び意識や同調圧力を堅持し続けてきたと言えます。
停滞期にこそ文化は花開く
人口も経済も右肩上がりの時代においては、マスを形成して中流の標準を上げていくことが合理的な戦略でした。物質的な豊かさを享受し、娯楽やレジャーをある程度の規模で提供していくことこそが正解だったわけです。しかし歴史を紐解いていくと、人口が停滞している時代こそが文化の多様化が進んだとも言えます。代表的な例で言えば平安時代であり、江戸時代の元禄期ですね。
つまり生産性向上や技術革新が起こった結果、余剰が生まれるようになりますが需要が一巡するとそこで量的拡大がストップします。そして生産余剰は質的充足へと方向性が変化していくのは、イノベーションの世界では常識です。平成時代を失われた30年と呼ぶ向きもありますが、停滞期から文化的な多様性へと価値観が変わる期間と捉えれば、今後の流れがみえてくるのではないでしょうか。
2025年は文化人になりたい
そして個人としても、20-30代のように仕事ができるようになりたい、出世したいという欲は薄れています。むしろ職業人としてのポジションを競争社会の中で得ていくような生き方は日本人や人類全体の発展にとっては害悪なのではないかとも思えるくらい、上述したサラリーマン文化の終焉を感じるようになって関心がなくなりました。
2024年に新たに始めたことは、シェア型書店の棚主です。基本的には「猫と積読」の名の通り、私が読みたいと思った書籍を発注しておいて並べている本棚なのですが、1年間運営してきてある程度の売れ筋だったり必勝法と呼べそうなやり方が見えてきました。また書籍に親しむ生活も板に着いてきて、2024年は127冊読むことができました。
本をたくさん読むとさらに読みたい本が増えてきて積読が高くなっていくというスパイラルに陥っていきます。未知の豊穣なる地平が広がっている感覚というか、自らの知的好奇心や認知の狭さを再認識することで、より世界の解像度が高まっていくように感じます。そしてその感覚を以って改めて旅に出たり、食を楽しむといった趣味の深化もできるようになりました。
たとえば地質学的な見地からその土地に根付いてきた伝統的な食文化を検証してみたり、朝鮮半島や台湾から先祖たちがどのような文化を伴って海を渡ってきたのかを追体験するといったテーマを持ちつつ旅するようになって、ガイドブックを片手に正解を辿るような旅行とは一線を画す経験を積み重ねる楽しみが増えました。
大げさに言えば千利休のように、茶の湯を文化的地平として切り開いた取組みを50代以降は見つけていきたいですし、そのためにもっと自分の中にも少なからず残るサラリーマン文化的な予定調和を崩していく必要があるように感じます。50代まで残り数年ですが、今が一番楽しいと思えるような人生を更新していけたら最高ですね。