刺された盲導犬が可哀想、という前に
NHKのニュースで、陸前高田市の復興の様子が語られていました。震災による津波によって大部分の市街地が押し流された陸前高田市では、「ノーマライゼーションという言葉のいらないまち」というビジョンを掲げ、障害者や高齢者、幼児、妊婦など社会的弱者の暮らしやすい街を再興していく計画です。
最近では、視覚障害者が連れていた盲導犬が何者かに刺され怪我をしたり、全盲の少女が駅で足を蹴られるといった事件が相次いでおり、ダイバーシティの掛け声とは裏腹に寛容性の少ない社会となっている印象がします。
罪のない者だけが石を投げよ
このような事件を耳にすると、我々は「盲導犬が可哀想だ」とか「障害は個性なのだから」といったお涙頂戴の美辞麗句に走りがちですが、果たしてそれで良いのでしょうか?このように記号化して消費されていった情報は顧みられることなく、結局は何も変わらずに不自由な世の中は残されてしまいます。
自動改札に詰まってしまうお年寄りに舌打ちしたり、レストランで泣きわめく赤ん坊を迷惑そうに見たり、もしかしたら自分自身が当事者になったら寛容性のない行動を取るかもしれません。少なくとも「罪のない者だけが石を投げよ」と言われた場合に、躊躇せずに投げられる人がどれくらいいるのでしょうか。
障害者とは、依存先の少ない者である
熊谷晋一郎さんという方のインタビューで感銘を受けたのは、健常者と障害者を分かつボーダーが、実は社会システムへの依存にあると気づいたからです。
「健常者が他人の助けを借りずに生活できているのは、多数派にあわせて設計された社会システムのおかげです。下支えするモノや制度、つまり依存先が多い。逆に障害者は、依存先が極端に限られている。本来、人は何かに依存しなければ生きられないのだから、自立は錯覚です。問題は依存先の数の差です」
例えば我々が電車に乗車する際には、自動改札を通って順番通りにエスカレーターに乗り、ホームでも整列して待ってドアが空いたら降りる人を通してから乗る、という一連の動作を無意識のうちに実行しています。それは高度に発達した社会システムに対応した行動を反復的に身に付けているからであって、そこに資質としての優劣はあまり関係ありません。
実際に地方から出てきた人が自動改札に戸惑ったり、外国人が電車の乗り方が分からなかったりするのは、日本の都会における社会システムに依存しきれていないのが問題なのです。そして、障害者とは日常的に社会システムに対して依存することが少ない人々のことを指しています。
せっかちで不親切だと損をする時代になる
これからの社会は急速に高齢化が進んでいきます。それは社会において認知・判断・行動のスピードが遅い人たちが増えていくということです。それでも高齢者たちはお金を持っていますから、社会システムは経済合理的にゆっくりな暮らしに合わせる方向に進んでいくことでしょう。
実際にコンパクトEVのような小さなクルマでは、時速20-30kmの低速走行が前提となっています。現在のように時速100kmも出るようなクルマが走っていて、それを認知度の低い高齢者が運転していたら危険ですから、恐らく今後街なかには大きなクルマは進入できなくなるでしょう。
エスカレーターを駆け上がったり、電車が3分遅れたらイライラするような、現代の都会人はどんどんマイノリティになっていきます。その社会においては、せっかちな人は精神的に危ないと思われてしまうかもしれません。
そして社会システム全体を構造的に変えていくためには、多くのコストと労力がかかります。むしろ最低限の共通認識の下で、お互いが協力し合うコミュニティをつくる方が、実はすんなりと多くの人々が依存できる社会システムを実現できます。
ちょっとした親切が高齢化に伴う財政問題や社会インフラの更新といったマクロの課題を解決するのです。果たして明日からどのように行動するのが合理的なのか、少し立ち止まって考えてみませんか?