都会の幸福、田舎の幸福
年末年始は、東京が地元の人間にとっては最も退屈な時期だったりします。帰省すべき田舎は存在せず、かといってどこかに旅行するにも交通費や宿泊費が高かったり、むしろ都内にいた方が人が少ないのではないかと考えて、結局は寝正月になってしまうというのが大体のところです。
そんななかで、ぼんやりと読んだのが『都会の幸福』という本です。都会生活を礼賛するという説明のとおり、一環とした都会に住むメリットを強調する立場には爽やかさを感じます。地域に関わる仕事をしている立場として、なるほどなぁと思いながら読みました。
都会の幸福 (曽野綾子著)
都会にあるもの、田舎にないもの
田舎、とくに中山間地域や離島といった僻地に近づくに連れて、自然環境の豊かさと厳しさに直面します。そして、人間が本能的に美しいと感じるのは、里山にしろ棚田にしろある程度人の手によって管理された、人工的な自然です。鬱蒼としたジャングルや果てしない砂漠といった原生的な自然環境は、もはや日本国内においては白神山地や知床半島といった国立公園として保護された地域にしか存在しませんし、そこに感じるのは美しさというよりは畏怖なのではないでしょうか。
僻地から田舎、そして都市に至る変遷は、実は人工物によって人々の生命や生活を自然の猛威から守るプロセスになります。人間は身の回りの安全を保障されてはじめて、風景が美しいとか自然の恵みに感謝するといった余裕が持てます。日本国内においては電気・ガス・水道・道路・警察・消防・教育・医療・福祉といった、社会システムによる最低限の生活保障を前提とした暮らしが存在し、その機能を高度集約化した場所が都会になります。
低次の欲求が満たされて、高次の欲求が生まれる
当然、都会には人工的な自然として公園があったり、伝統文化や歴史においても自然の食材や素材を活用した高度な技が存在していたり、人間の暮らしを高度集約化しているからこその機能美・様式美を表現する余裕があります。もはや放置された山林よりも整然と管理された寺社の鎮守の森の方が、我々は豊かな自然を感じるでしょう。
同じように、田舎に仕事がなくて都会に仕事があるのは考えてみれば当然で、単純労働に近い第一次産業から低次の欲求が満たされ、その前提によって高次の欲求を満たすような第二次・第三次産業が発生していった経緯があります。そして、差別化欲求や自己実現欲求という最も高次な欲求を満たすために、再び田舎に目を向けようといったソーシャルな考え方が出てきているのです。
都会にないもの、田舎にあるもの
世界の50都市人気ランキングというものが発表され、東京は第24位にランクインしていました。世界中の調和のとれた街並みの写真が並んでいる中で、典型的な東京の姿として紹介されていたのは、渋谷センター街の様子でした。外国人にとってはこのカオスが物珍しく面白いということなのでしょうか。
都会に住む者にとっては、隣近所にどんな人が住んでいて、どんな家族構成で何の仕事をしているかといったパーソナリティはほとんど関心がありません。その無関心さが象徴的に表れるのが建物であり、隣の建物とは色も形も違うといった個別最適の集積によって、都会の街並みは形成されています。同じような建売住宅が並ぶのはニュータウンやマンションのような集合住宅地であり、そこに住むのは田舎から都会に出てきた人たちと相場が決まっています。
地域コミュニティとは、隣近所への関心とおせっかい
正月に兵庫県城崎温泉で火事があり、2人の方が亡くなったという痛ましい事故がありました。現場は1925年に起こった北但大震災の復興住宅として、築80年以上の老朽化した木造住宅が密集した場所だったそうです。古くからの温泉街として、他の地域から移住して来たり出稼ぎに来ていた人たちが住みつき、高齢化した地域コミュニティにおいては、自主防災もままならない状況が出てきています。
田舎では隣近所への声掛けや家族ぐるみの付き合いは当たり前、という前提は田舎においても急速に崩れてきています。とくに東日本大震災の被災地域においては、阪神大震災や中越地震の教訓を元に隣近所の地域コミュニティをまとめて高台などに移転させるといった取組みが進められています。一方で仮設に移った人たちが再び全員、元の地域に戻るかといえばそうではなく、復興計画を立てたもののそこに住む住民は不在であるといった状況も顕在化しています。
他人の生活に口を出さないことで得られる自由
田舎でももはや、隣近所に対して口うるさく干渉することは憚られるようになってきています。それは戦後教育による西欧化の影響なのか、核家族化による個人主義の進展なのか、専門的なことはよく分かりませんが、「自分」という範囲で捉えられるコミュニティが狭まっているという実態があります。隣の子どもが悪戯したら怒鳴りつけるのが当たり前だったのが、いつの間にかプライバシーや虐待といった言葉を恐れて大人たちは何も言わなくなっています。
昔の笑い話では、隣の奥さんが「床屋に行く」と言ったら浮気していると噂され、「銀行に行く」と言ったらへそくりを貯め込んでいると陰口を叩かれ、一番無難なのは「郵便局に行く」と言うことだ、なんて時代もありました。今では「ショッピングモールに行く」で片付いてしまうことなのかもしれません。
周囲の目をあまり憚る必要がなくなって、地域コミュニティの繋がりが弱まることで自治機能も低下していきます。それを補うのが公共サービスたる社会システムの安心感であり、田舎まで公共インフラを整備し尽した日本においては、「都会の幸福」が田舎にも伝播しつつあるのでしょう。
果たして、昔ながらの田舎の地域コミュニティが良かったのかどうかは体験したことがないので分かりません。でも個人主義と自由が当たり前の都会で育った立場として、自分のスタンダードな価値観が通用するようになり、なおかつ高次な欲求を満たしてくれる田舎は魅力的に映るフロンティアになっているのです。