若者が地域に活路を見出す問題
「なぜ、若者は地域に行くのか。」というエントリーを読みました。
20代の大学生らしい、瑞々しい行動力と実践から学んでいく姿勢に、頼もしさと希望を感じました。かつての自分を見ているようだと述べるのは上から目線かつ批評的ですが、敢えてこのエントリーにツッコミを入れながら現在の地域おこしや地域活性化、地方創生といった分野を取り巻く諸問題を紐解いていきます。
小さな社会実験を地域でしかできない問題
新しいこと、革新的なことを実証していくために、既得権益が少なく合意形成の容易な(絶対的な人口の少ない)地域で進めるのは、合理的な考え方です。かつては私も、公道を走れなかったセグウェイを棚田で走らせたり、スカイランタンを飛ばしたりしていました。それらの活動が今ではトヨタの小型モビリティの実証実験や、集落の祭り復活に繋がっていたりします。
誰のために、何のために社会実験するのかと言えば、困っている地域住民がいるから、将来世代のために持続可能な地域を残したいからといった、誰もが否定できない理由を述べるケースが多いでしょう。しかし、それでは長続きしません。それをやっている当事者が楽しいから、自分たちが新しいことに挑戦しているんだという利己的な高揚感を肯定した方が良いです。
再現性と競争優位性の話
都市部の企業においては、新商品や新規開発したサービスは他社に模倣されないようにパテントで防衛したり、マーケティングや法的に参入障壁を構築するといった競争優位性を担保する取組みをします。他方で、地域における活動は他の地域へのモデル性であったり、容易に模倣できる再現性が重視されます。
実際に私が最初に始めた林業×合コン=ecoコンは全国各地で模倣され、第一次産業×合コンというイベントは公的予算で実施されるようになっています。近年ではとくに地方創生の名の下に、公的予算を使って民間が立ち上げた事業を模倣し、創意工夫やニーズを汲む努力をせずに陳腐化させていくケースが多数見られます。
公的予算による模倣と粗製濫造による陳腐化によって、先駆者はその事業だけでは食べていけなくなるため、別の事業を新たに開発しなければなりません。先行者利益が決して大きくないというのが、地域における活動の課題と言えるでしょう。
イベントと講演と人材育成に終始してしまう問題
小さな社会実験を地域で実践していた若者は、自分の活動を知らしめるためにイベントを主催するようになり、やがて他の地域から呼ばれるようになります。そうやって小金を稼ぐようになると、本来的なイノベーターとしての気概に優先して自分の活動や団体を大きくしていくことに執心するようになります。
他の地域からは講演に呼ばれて、絶対に実践しないような客層に対して自慢げに話をするようになり、地域こそが先進的だと喧伝して若者たちを集めることで人材育成をやり始めるというのは、かつての自分も通ってきた道です。そしてそれらの活動費の出どころは往々にして公的予算であることも事実です。
地域活動が都市的競争に飲み込まれる問題
政府は地方創生の名の下に、各自治体に対して競争的に交付金を獲得せよという自治体間競争を煽るような枠組みを創設しています。ハードからソフトへ、厳しい批判を浴びてきて道路や公共施設といった不動産に紐づいていた予算を、地方創生推進交付金のような地域の自主的な取組みに対して評価し執行する形へと変質させていきました。
その結果、安易な模倣や粗製濫造、あるいは先行事例を引っ張ってくるための講演や視察、人材育成といった“ソフト事業”が重視されるようになり、地域で活躍する若者はある意味行政の下請け的なポジションで食っていくことになります。先進的なオンリーワンになりたかったはずの若者は、都市的な競争原理に飲まれて巨大なヒエラルキーの下部に埋め込まれることになります。
地方創生はSDGsへ
2019年度の行政予算を概観すると、五輪を意識して地方創生をSDGsへとコンセプト変更しているものが目立ちます。SDGsは、もともとは人権尊重をメインに誰一人取り残さないをモットーとしてつくられた目標です。地方創生をSDGsに準えるのはコンセプトとしては正しいのですが、実情としては地方創生にしてもSDGsにしても都市型の競争論理を過度に導入している感がします。
企業が新規事業のターゲットにしたり、行政予算を競争的に獲得するといった各論は良いと思うのですが、総論としての諸々の状況はとても気持ち悪く感じてしまっているのが個人的な所感となります。若者たちには存分に新しいことに挑戦してもらいたいと思うものの、それを取り巻く大人の世界だったり、近づいてくる企業や行政の思惑をしっかりと見極められるメンター的存在を側に置いてもらいたいですね。
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