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ダムの湖底に消えた奧三面集落

ドキュメンタリー映画『越後奧三面 山に生かされた日々』を観ました。舞台となった奧三面おくみおもて集落は新潟県北部、村上市から三面川を遡った朝日連峰の山中にありました。2001年に奥三面ダムが完成し、集落はダムの湖底に沈みました。

縄文の暮らしを色濃く残すマタギの里

奥三面集落は小池、高橋、伊藤という3つの名字で構成される42戸150人の小さな村でした。ルーツは縄文時代とされ、実際に奥三面集落周辺には縄文から古墳時代にかけての数多くの遺跡が残されています。冬には2-5mもの積雪がある豪雪地帯であり、この雪解け水が3つの川を流れ出て集落周辺で合流するために三面という名が付けられたとされます。

奥三面集落周辺の遺跡群。これらもダムの湖底に沈んだ。

村での暮らしぶりは縄文時代から変わらなかったであろう狩猟採集生活がメインであり、春には山小屋に一ヶ月籠って山菜を取り、夏には焼畑に蕎麦を撒き、秋には栗やクルミを収穫し、そして冬にはカモシカや熊を追って山に入るという季節に応じたサイクルの暮らしがありました。

一方で自動車が通れる道は近年になってようやく整備され、冬場には2時間かけて人の足で行き来しなければならないといった外界と隔絶された環境となるため、この前近代的とも呼べる奇跡的な暮らしが約40年前にも維持されてきました。

集落の命運を変えた羽越豪雨災害

1967年に発生した羽越豪雨災害は新潟県と山形県を中心に100人余りの死者を出し、戦後最大の激甚災害となりました。それを契機として日本海側の胎内川や最上川、そして三面川の治水計画が見直されました。三面川ではすでに三面ダムが1953年に完成していましたが、さらに上流となる奥三面ダムの建設計画が1970年代より持ち上がり、奥三面集落には立ち退きの交渉が県を通じて始まりました。

このドキュメンタリー映画はまさにそんな村と文化の存続の危機に揺れる1980年代のタイミングで撮影され、豊かな山の資源とそれらに感謝しながら集落全体で力を合わせながら暮らす姿が貴重な映像として残されました。とくにマタギとして熊を追う姿は圧巻で、昔ながらの木綿の服を着て獣の皮で寒さを防ぐのがもっとも合理的なのだと理解できました。

日本海側の山の恵みの豊かさ

印象的だったのは、5月に一ヶ月の間家族で山菜小屋と呼ばれる簡素な小屋に住み込み、1日30kgもの山菜を取り続ける生活を送っていることです。この山菜は貴重な現金収入となり、子どもたちも仕事を手伝うために10日間のゼンマイ休みという長期休暇があったそうです。

わらび、タラの芽、ふきのとう、こしあぶらといったメジャーどころ以外でも、赤みず青みず、うるい、やまうど、青こごみ赤こごみ、しどけ、葉わさび、山わさび、山にんじん、かたくり、しおで、よもぎ、いたどり、茗荷竹、あけび、あまどころ、行者にんにく、あいこ、あざみ、、といった30種類以上の山菜が獲れるようです。

さらに茹でて灰汁をとって乾燥させることで、通年で食べられるように加工されます。豪雪地帯のこの地域では、降り積もる雪が実はミネラル分を保ちながら温度を一定に保つ役割をしており、また豊富な雪解け水によって山菜は春を迎えると一気に成長するのです。春の山の豊かさをいただくために、小屋まで建てて家族でプチ移住するのは面白いですね。

現代人に漂う不安と、山の暮らしへの憧れ

現代の私たちを取り巻く生活は、たとえ地方に住んでいたとしてもガソリンで走る車に乗って、火力や原子力で発電された電気を使って便利な暮らしを享受している人が大半でしょう。スイッチ1つで様々な機能が得られるのは快適ですが、その裏にあるグローバルなシステム全体が壊れたらどうなるのか?というそこはかとない不安も見え隠れします。

実際に東日本大震災やウクライナ紛争を通じて、我々が立っているライフスタイルそのものが実は砂上の楼閣のように脆い存在なのだと考え始めると、実は先祖たちが守ってきた自給自足の生活にこそその不安を打破するヒントがあるのではないかと感じます。

もちろん、奥三面集落の暮らしに完全に立ち戻ることは難しいでしょうが、集落全体が家族のように協働作業しながら、季節に応じて自然の恵みを分けてもらうようなライフスタイルには憧れとともに多くの学びがあると感じました。

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