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上野千鶴子さんの祝辞が響かなかった

Web上で色んな人がシェアしていたので、上野千鶴子さんが東大入学式で述べた祝辞を読んでみました。多くの人は素晴らしい!と賛辞を送っていましたが、個人的には読んでみてもあまりピンと来ませんでした。

Diversity(多様性)とInclusion(包摂)

21世紀において、SDGsの取組みが重視されるようになってきており、その本質がDiversityとInclusionであることには疑いの余地はありません。そして、ベストセラーとなった『ファクトフルネス』に示されているように、これら格差は縮小傾向にあり国際的に不断の協調努力が実を結びつつあります(解決したというわけではない)。

その意味では、上野千鶴子さんのアジェンダ設定は時代認識として少々古いと感じました。もちろん女性学の第一人者として学問領域を創出し、時代錯誤な状況を変えてこられた自負と実績があってのお言葉なのでしょうが、今となってはご本人が時代錯誤な状況になりつつあるというのも事実です。

実際に大学生たちと話をすると、まず「合コンって何?」という答えが帰ってきます。昔はサークルを仕切っていたような意識高い系の学生は、今は学生団体と呼ばれる収益性を前提とした活動が中心となり、他の大学生だけではなくて社会人とも積極的に関わる傾向にあります。その意味では、機会格差は広がっていると言えます。しかしそこに性差はあまり感じません。

もちろん女性が男性に比べて不利な立場に置かれる、というのは未だに存在する厳然たる事実です。しかし、21世紀に入って我々は女と男という二項対立の他にも様々な性別があることを知っています。LGBTの存在を意図的に無視したというのであれば、上野千鶴子さんの言葉は我田引水の評価を免れません。

都市か田舎か、という議論との同調

私が専門領域とする地域活性化の分野においても同様の傾向がみられます。都市か田舎か、という分かりやすい二項対立で議論を組み立て、双方の分断を煽ることで注目度を高めるという手法は、一見して何かを発信しているようで何の解決にも繋がっていません

東京都心のタワーマンションに暮らす人々も限界集落のポツンと一軒家に暮らす人々も、日本国民全体からみればどちらもマイノリティでしょう。同様に東大というアカデミアのヒエラルキー内での女性比率を例として取り上げることによって、何かを解決しようと考えているのかは疑問に感じました。

個人的にもアカデミアの組織構造を少なからず知る立場としては、このヒエラルキー構造は非常に男性的に設計されているのも事実であり、多くの企業や団体の組織構造においても昇進や政治のあり方は男性基準になっています。しかし、それを変えるのは今そのサル山に居座っているボスたちの仕事であって、夢と希望を抱いて入学式に臨んだ新入生たちに期待することではありません。五神総長の卒業式告辞には、その決意を感じました。

乱暴な議論に対峙する知性を

再び我田引水(笑)するならば、都市か田舎かの二項対立の果てに「田舎はすべて原野と森林に戻して都市に人口集中すれば良いのだ」という議論を吹っかけてこられる人もいます。それに対する答えもDiversityとInclusionであり、20世紀の工業化に合わせて郊外から都心へ労働者を通勤させる都市モデルが、未来永劫有効である保証はどこにもありません

むしろ、中山間地域で伝承されてきた自然資源を上手く活用する技術であったり、漁村がどのようにネットワークされて海路が行き来されてきたのかといった歴史文化の多様性を担保する要素として持ち、いざ社会構造が変化しようかという時に活かすのは大学としても重要な役割と認識しています。

そして何より、これまでは教科書に書いてあったことを中心に暗記する反復学習をしてきた若者たちに、知的好奇心を刺激するフロンティアをいかに提供できるかが問われていると認識しています。及ばずながら、田舎と一括りにして細部を見ようとしない大人たちを諭す解像度を身に着けられるように、若者たちが地域で知性を磨く機会を創っていきたいと考えています。

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