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「正しいこと」vs「正しいこと」

最近のニュースでは、イスラム国に捕縛された日本人の人質に対して身代金が要求されていることをめぐって、様々な意見が出されています。その意見は大まかには2つに分けられます。

「生命はカネよりも重い。身代金を支払って人質を解放するべきだ」

「テロ組織に資金供給したら、二次的犯罪を生むので交渉してはいけない」

この2つの意見は、実はどちらも「正しいこと」です。人道的に正しいか、政治的に正しいかの違いであって、実は善し悪しで白黒はっきりと答えがでる問題ではありません。

好き嫌いなのに善し悪しで判断していると思い込む

この問題のように私たちが「正しい」と信じて、反対意見を「間違っている」と感じてしまう原因は、実は感情に起因する好き嫌いです。前述の問題にしても、これまで生きてきた価値観や習慣によって好き嫌いは分かれると思いますが、それをあたかも正論のように主張する言説が数多く出てきています。

個人的な興味分野でも、同様のケースが散見されます。以下の意見は私の周りではよくやり取りされる話ですが、これもどちらも「正しいこと」を主張しているわけで、どっちを取るかは実は好き嫌いに拠ります。

「日本の農村は心の拠りどころなので守らなければならない」

「都市に人口を集中させなければ日本の財政は破たんする」

対立意見は、実は論点が異なっている

上述した地域再生の議論で言えば、実は心の拠りどころという正論を満たすための方法論は、日本の伝統的な暮らしや文化を守り伝えていくコンテンツ面の強化にあり、一方で都市に人口を集中させるといった正論は地方財政の最適化と再分配の仕組みの見直しという、別の論点の話です。ちゃんと考えれば、どちらも両立することができるはずの事象を、二項対立構図で捉えて善し悪しで語っているために、建設的な議論にはならない傾向にあります。

異なる論点の問題を具体的な行動に落とし込むカギになるのは、やはり好き嫌いという感情です。自分はこの価値観の方が好ましく感じるからこっちを選んだという直感は、往々にして重要な決断と言われるものに繋がっています。その意味においては、イスラム国の問題に対するアプローチによって右か左かというイデオロギーが分かれるのも、当然と言えます。

好き嫌いはしばし、イデオロギーになる

「農村が好き」という人々はだいたい古民家が好きで農業が好きです。それらがセットになって守るべきものだという議論になるため、イデオロギーとしてはTPP反対、原発反対、安倍政権反対といった左寄りの意見が主流になります。でも農村自体は実は自民党の票田であり、どちらかと言えば右寄りな保守派が多数を占める地域です。

もちろん、中には農村は好きだけれども古民家にはあまり興味はないし、農業はキライという人もいるはずです。しかし、好き嫌いがイデオロギーになると、そこには同調圧力が生じてあまり個人の好き嫌いが表明できないジレンマに陥ることになります。

イスラム国の話で言えば、人質を取って身代金を要求したのは安倍首相がイスラエルで資金援助の話をしたからだ、という安倍政権反対のイデオロギーがごちゃ混ぜになってくると、途端に身代金を払うべきと主張するのが左派で断固支払うべきではないと主張するのが右派で、といったラベル分けが始まります。本来そこには因果関係がないはずなのですが。

我々は他人事に対しては、好き嫌いでしか語れない

結局のところ、人質が自分の家族や知人でなければ、大多数の人々にとってはこのニュースは他人事であって、好き嫌いで語るレベルでしか判断していません。その自覚がないまま善し悪しで表現したり、イデオロギーを主張し始めたり、何だか好き勝手な方向に話を拡げていくのも他人事だからでしょう。

家族や知人であれば、一刻も早く無事に解放されることを祈らずにはいられないでしょう。傍観者たちはテロ組織が悪で自分たちが善だという構図で捉えていますが、当事者は最悪なのが死であり最善が生還なのです。その前提を踏まえずに、あたかも自分の好き嫌いが正しいかのように主張を開陳するのは、やはりちょっとズレているように感じるのです。

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