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まだ終わっていない公害・水俣病

科学技術が発展するトレードオフとして、取り沙汰されるのが環境汚染です。とくに公害と呼ばれる、高度成長期の日本における負の歴史は全国各地に現在も大きな傷跡を残しています。今回、水俣病で有名となった熊本県水俣市を訪問してきました。

企業都市・水俣の形成

水俣市は熊本県南部、鹿児島県との境目に位置し、水俣川を中心に不知火海に面した漁村でした。遠浅の海からは多種多様な魚介類が水揚げされ、ここで暮らす人々の食生活は海産物が中心となっていました。

20世紀初頭、食糧増産と様々な化成品の製造に迫られた日本社会では、肥料や窒素化合物の原料となるアンモニア(硫安)の生産が始まりました。その生産地に選ばれたのがこの水俣という地であり、水俣川上流の水力発電による電力供給と朝鮮半島から連れてこられた労働力をもとに日本窒素肥料株式会社(後のチッソ)が設立されました。

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敗戦と食糧増産

敗戦を経て、新興財閥となっていた日窒コンツェルンは解体されますが、食糧増産の圧力は増すとともに戦争からの引揚者を中心に雇用創出が望まれ、新日本窒素肥料株式会社として再スタートを切った水俣工場では窒素化合物の原料となるアセトアルデヒドの生産を拡大させていきます。

植民地を失った日本においては、九州や東北といった辺境地は都市住民を養うための生産拠点として再定義され、戦時下において国が管理していた工場や炭鉱といった生産物は民主化され、大手資本の下に経済成長していくようになりました。地域に資本が流入すれば雇用が生まれ、住民の生活は豊かになります。水俣においても、この経済好循環は歓迎されていました。

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水俣の海から悲鳴が上がった

最初に異常を訴えたのは、漁師たちでした。豊潤な水俣の海にヘドロが溜まり、海藻の森が失われたことで魚が獲れなくなったため、生活が立ちいかなくなった漁師たちは、その原因をチッソに求めます。小作人的な網子が大半であった漁師たちの足元を見て、チッソは一時金を支払うことで示談による訴訟取り下げという幕引きを図ります。

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猫が踊り狂い、魚が浮いた

漁師たちが訴えてまもなく、水俣周辺の動物たちに異常が起こるようになります。漁村に住み着いていた猫たちが暴れ始めて突然死したり、カラスや水鳥が空中から落ちてくる、魚が海面に浮き貝が死ぬといった事態が発生しました。

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猫や鳥たちと同じく、水俣の海から獲れた魚を食べていた住民たちにも異常が起こるようになります。原因不明の神経衰弱から言語障害、歩行障害、求心性視野狭窄、難聴などの症状が現れ、やがて重症化して死に至る人々も出てきました。

様々な症状が現れたことに原因究明が遅れ、1956年の水俣病の発見(公式認定)から1968年に国が水俣病の原因をチッソ水俣工場の廃液であると認めるまで、12年もの期間がかかりました。

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水俣病の被害者とは誰か

水俣病の被害者は、当初は重篤な症状を示す患者に限定されていました。歩行困難となって寝たきりになった人や、出産時に脳や神経に異常を持つ胎児性水俣病など、顕著な対象者に対する補償が優先されました。

しかし海は繋がっており、対岸や不知火海沿岸部で言語や視覚・聴覚の異常を訴える住民たちが数多く発見される中で、この公害問題を見逃してきた国や県の責任も問われることとなります。2004年に最高裁において水俣病の発生に対して適切な対策をせず、被害の拡大を野放しにしてきたとして国や県に対して賠償責任があると判決が出ました。そのため、水俣病救済特別措置法が制定され現在も補償が行なわれています。

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水俣病の原因と差別

水俣病は、アセトアルデヒドを生成する際に使われる触媒のメチル水銀が、工場廃液として海に流出したことが原因です。メチル水銀はアミノ酸・システインと結合し、神経伝達を司るメチオニンと似たような挙動を示すため、神経伝達物質であるメチオニンが不足して様々な障害が発生します。

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この原因不明の奇病に対して、感染性なのではないかと被害者を隔離・差別するような動きが起こり、学校や職場を辞めざるを得なくなるといった事態も記録されています。被害者が加害者となり得る、複雑な構造が浮かび上がります。公害問題における二次被害として、災害や疾病において今後も起こり得る状況と言えるでしょう。

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水俣病から学ぶ教訓

どうして水俣という地が公害の被害に遭ってしまったのか、河川や海といった自然環境や、交通利便性など様々な要件が挙げられますが、この地も戦場として繰り広げられた西南戦争の影響なくして語れません。明治政府の秩禄処分に不満を持った旧士族が決起して起こったこの内戦は、膨大な戦費によって国家の財政不安を引き起こし、結果として松方デフレと呼ばれる富の資本家への集中をもたらしました。

この水俣の地においても、野口遵という日窒コンツェルンの創始者に資本が集中し、旧士族を含む数多くの地域住民が労働者としてチッソ工場や漁業者として働く地域社会構造が生まれました。資本の論理によって生産性やその生産物によって国家が豊かになるという正義の下、格差構造が生まれてその結果発生した公害の犠牲となるのは弱者であるというトレードオフの非対称性が起こりました。

補償し続けるためには、チッソは存続する

平成から令和に移る現代日本においても、完全にデフレの経済状況から脱却できたわけではありません。相対的貧困と呼ばれる富の格差は、水俣を含む地方都市と大都市の間では顕著になっています。とくに東日本大震災という未曽有の災害を経験した私たちは、大都市の豊かな暮らしを守るために東北など地方にトレードオフとなる工場や発電所が立地していることを知りました。

国や県によって救済が認められた水俣病患者は1万8千人程度ですが、潜在的には3万人程度の被害者がいると言われています。この被害者認定は未だに係争中のところもあり、水俣病は終わっていないと言えます。熊本県はチッソに対し、県債による無利子融資を実行して被害者救済を支援しています。チッソが潰れてしまえば被害者救済も成り立たなくなるという、複雑な状況は東日本大震災における東京電力の立場とも重なります。

環境都市としての水俣の再生

ヘドロの海となった水俣港は埋め立てられ、国と県、市が運営する水俣病対策施設が建てられたエコパーク水俣となっています。水俣市は1992年に日本で最初の環境モデル都市として、市民の循環型社会形成や地球温暖化対策を進める宣言を行なっています。ごみは21種類に分別され、スーパーではポリ袋や食品トレーを削減するといった取組みが積極的に行なわれており、日本の環境首都ランキングでは常に上位に位置しています。

もちろん、環境省が優先的に補助金を投下してきたという地域事情もあるでしょうが、水俣病という負の状況から市民が一丸となって地域ブランドを再構築するという活動に取組み、環境保全や循環型社会の形成にいち早く成功した地域として注目されるべきでしょう。また、この水俣病のことを知り、さらに環境に関することを学ぶエコツーリズムの可能性も大きな地域資源となっています。是非とも水俣の地を訪れてみてください。


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